[翻訳] Wikipedia:長すぎるので読んでません (tl;dr)

Wikipedia 英語版でたまたま見つけたエッセイ「Too long; didn’t read」が面白かったので日本語訳した。語彙の高尚さと内容のどうでもよさのギャップがたまらない,tl;dr を体現した記事。

文中のリンクは Wikipedia のメタ情報類(“Wikipedia:” 等の名前空間に所属するもの)のみ訳文にも付与した。脚注等は省略した。


Wikipedia:長すぎるので読んでません (Too long; didn’t read)

このエッセイは1人あるいは複数の Wikipedia 寄稿者の助言または意見を含みます。エッセイは Wikipedia のポリシーやガイドラインではありません。広範囲にわたる規範を示すものもあれば,少数派の意見を表すにとどまるものもあります。

このページの要約: 簡潔に。

手紙がいつもより長くなってしまいました。短くするための時間がなかったのです——ブレーズ・パスカル

(警告: このページは自己言及的です)

過度に長く体裁の悪い文は仲間の編集者らをジレンマに直面させる。筆者の言わんとすることを読解するのに膨大な時間を消費するか,あるいは少々失礼して,まともに読まないか。長大な文章は筆者の考察を要約し適切な分量にするためにあと数分という時間をかけていないということの証左となり,当該の文章が顰蹙を買っていることを示す略語 tl;dr の登場を許す,ということは執筆者らに広く知られているところである。

伝統的に,「長すぎるので読んでません (Too long; didn’t read)」(tl;dr,あるいは簡単に tldr と省略される)というフレーズは,インターネット上で,過剰に長い文章に対する返信として使用されてきた。読者がそのはなはだしい長さのために,実際には読んでいない,ということを示しているのである。このエッセイでは特に Wikipedia での議論において使用されるそれについて考察し,またこの問題が記事において現出した場合にそれを是正する方法について検討する。

ラベルとして,tl;dr は共同編集に欠くべからざる種類の議論を阻止する策略に用いられることがある。他方,文章が重複ばかりだったり下手だったりするので斜め読みまたは読み飛ばして時間が節約可能である,ということを認知させる簡潔な標識にもなりうる。かようにこのシンボルの示唆するところは広く,あるいは読者が忍耐力,興味もしくは知性の欠如のために読むのを放棄した,卓抜かつ情報量豊富な論説であったり,あるいは有能な読者をして頭痛を生ぜしめる類の,情報伝達に徹頭徹尾失敗した寄せ集めの文章であったりする。この振れ幅の判断はきわめて主観的である。

このラベルは著者自身により,長い文章の端的な概要を示すのに使用されることもある。

なぜ長くなるのか——結果はさておき

書くことが楽しいから Wikipedia を編集する,という編集者は多い。しかしながら,書くことへの情熱から,記事が必要以上の長さになるおそれがある。その理由は,あるときは,長い文と大言壮語によって博学であるように見えるという風に執筆者が誤って認識していることである。またあるときは,見当違いのプライドが邪魔をして,どの単語が不必要であるかを著者が見極められなくなっていることである。著者が急いでいて(あるいは怠惰に過ぎて)簡潔明瞭に書けないということかもしれない。「手紙がいつもより長くなってしまいました。短くするための時間がなかったのです」というパスカルの有名な一節を思い起こそう。パスカルのごとき天才であればそんな優先度の付け方でも無理もなかったのだろうが(神経外科医が病院の造園をするのに時間をかけられないのと同じように),我々は割り当てられた仕事をこなさなければならないのである。関連した話だが,管理人候補者たちは,貢献の「価値」というはるかに重要なものを差し置いて,単にこれまでに執筆した「分量」だけで選別されることがある。ときにはその筆者は研究者であるかもしれない。同僚に印象づけて追加の資金調達を正当化するためには研究分野特有の難解な専門用語が必要になる,というのが,研究者という職業である。彼らはそのようなことを Wikipedia においていかに差し控えるかを知っているとは限らないし,そもそも差し控えるべきだということすら知らないかもしれない。

上述の要因により,Wikipedia における多くの記事,説明,そして特にコメントは,必要以上に長い。Wikipedia の中核的ポリシーのいくつかは長すぎると感じる者もある(例,クリエイティブ・コモンズ・ライセンス)。このことは,理解せんとする読者に過大な負荷を与えていると考えられる。かかる問題はまた別のところでも見られる。

執筆者たちはしばしば,長たらしい下書きを書くことからプロジェクトを始める。文章を繰り返し改訂する過程を経て,彼らは自分が伝えたいことをより深く理解し,文章の長さを減少させられるようになる(はずである)。もしこの過程が早々に切り上げられてしまうと,出来上がりは不必要に長くなる(パスカルの引用で示されたように)。(時間費用が高い中で)注意深く編集されていない短い文では,歪曲や省略にも匹敵するほどに物事を単純化しすぎるかもしれない,あるいは誤解のリスクが高まるかもしれない,という懸念から,執筆者たちは,冗漫な言い回しという過ちを犯すことがある。

研究者の仕事は,実証されたケースを全て漏れなく説明できる範囲で,理論を可能な限りシンプルにすることだ,とアルバート・アインシュタインは表現した。彼の意見はしばしば「すべての物は,できるだけシンプルに作られるべきだが,シンプルすぎてもいけない」と言い換えられる。ある者が,別のある者によって構想された現実世界のモデルではカバーしきれない例を指摘しようとしたことで,人々の間に多くの議論が生まれる結果となった。このようにアインシュタインの言及した概念は長々とした解説に拍車をかけることがある。しばしば,周辺的なケースを説明したいがために。

「簡潔は分別の魂 (brevity is the soul of wit)」というのは尊敬すべき警句である。同じような格言だが,自称 筆の立つ執筆者らに対するアドバイスで「不要な言葉を省略せよ」というのもある。編集者らは,簡潔に書き,過度の専門用語を避けるよう奨励される。もし長大な文を記事に書く必要があれば,編集者は短い要約も盛り込みたいと思うだろう。加えて,読者の理解を助けるために単純な語彙を使うことも適切であるだろう。多くの読者は英語が第一言語ではなかったり,その他明瞭ならざるニーズがあったりするだろう。

不必要な長さは時に傲慢の印と解釈される。こんな読者へのメッセージが透けて見えるのだ:「俺様の時間はお前の時間よりも価値がある。俺様はわざわざ表現を簡潔明瞭になどしたくないので,俺様の言葉を篩にかけるという重荷はお前に肩代わりしてもらう」。性格上,人よりも多弁な人間というのもおり,彼らはそういった誤認をされているほどには傲慢ではなかろう。それでも,多弁なる者たちは,読者の視点でものを見るよう努め,自身の快適レベル——彼らにとってはすでに明瞭と思われるレベル——を超越してより偉大なる明瞭さに到達しなければならない。あなたの考察を簡潔にまとめることは,効率的な意思疎通だけでなく,読者との関係を築くためにも役立つ。

長すぎて体裁の整わない貢献であることを表すために WP:Walls of text というフレーズがよく用いられている。

冗漫さを低減する

あなたが Wikipedia の記事で過剰に長いテキストに遭遇した場合は,削る(もしそれが本当に冗長なのであれば)こと,あるいは我々の要約スタイル(これにより読者がより深く掘り下げることが可能になる)に適合するように記事を分割することを検討してほしい(さらなる情報は WP:SPINOFF を参照)。過剰に長い要約を,あなたが自分で削ることができない場合は,plot テンプレートでタグ付けをお願いしたい。

前の著者がどんな有用な考えを伝えようとした(しかし伝え損ねた)のかについて,できる限り理解するよう少々の努力をいただきたい。粗いながら有用な下書きを,より良い下書きへと向上させずに迂闊にもさっさと削除してしまうことがないようにである。もしあなたがそれほど性急かつ無情だとすると,あなたは碌な読解力を持たない輩と同類,という評判しか得られないことになるわけで,多弁なる執筆者の信頼性と同様に,あなた自身の信頼性も問われているのだということを忘れないでほしい。これが不当な評判だというのはご承知かもしれないが,あなたの行動によってはそれが正当な評判にも見えてしまいかねない。

何人かの言語学者(最も有名なのは Geoffrey K. Pullum)が Strunk & White の「不要な言葉を省略せよ」というアドバイスに賛成していない理由の一つは,「多弁さはおしなべて,あまりに性急に筆が滑ってしまったナンセンスで無価値で冗長なものである」とアマチュアの編集者(「執筆者」の対概念としての。言い換えれば,「作者」の対概念としての「批評家」)に誤解させるからである。また,「全ての冗長さが認知上あるいは情報伝達上 無価値であるとも限らない」ということを認識させるのに失敗しているからである。眼目はこうだ。長大なコンテンツを判断する際は熟慮せよ。Strunk と White は「この助言は,筆者に全ての文を短くしろとか,詳細を全て省略して主題のアウトラインだけを扱えとか言っているわけではない。全ての単語を意味あるものにしてほしいと言っているのだ」と述べることで彼らのアドバイスの表現を緩和している。削除は必ずしも向上と同義ではないし,複数のケースを知性的に差異づけることはおよそ楽な仕事ではない(あるいは,Strunk と White が推奨するとおり,「それはしばしば簡単ではない」)。

礼儀正しさを維持する

読者が,議論のさなかにこのエッセイをあからさまに持ち出そうとするのは否定的で失礼だと思う向きもあるかもしれない。したがって礼儀正しい編集者は,WP:TLDR を引用する代わりに,編集者の長たらしいノートページにセクションを作成し,もっと簡潔に記述するよう丁重に依頼する。

このエッセイの誤引用でよくあるのは次のようなことである。文章が不必要に長い編集者による,根拠があって実際には明快な議論,および返信のリクエストを,ふざけた “TL;DR” で無視することにより,強固な主張あるいは自分自身の地位に対する批判の信用を失墜させ,それを表明することを拒否しようとする。ここには四重の誤謬がある。人格攻撃。嘲笑。思考停止的な常套句。そして,おそらく時間がないことで,議論へ実際に参加するのに単に失敗すること,すなわち「冗漫さによる証明」の逆バージョンである。

最後に,完全なる怠慢やあまりにも簡潔すぎることは,(必要な根気強さを持たないくせに)かなり枝分かれした内容を含めようとした際に必要となる重要事項が欠落することになりうる。


リビジョン 15:35, 10 October 2014 に基づく翻訳。