雑記 2015年8月

2015-08-01 (土)

ただただクソ暑い。セレーナの合奏。その後,ブルーメンを聴きに行く。うまい……。

都営線の駅って空間をドーンと大きく取っているところが多くて,随分がらんとした造りだなと思っていたけど,赤瀬達三『駅をデザインする』を読んで,広いことはいいことだと思うようになった。久しぶりに寄った銀座の駅の圧迫感たるや。

2015-08-02 (日)

アルスの練習。昨日も今日も古石場。地下鉄古石場線を作りたい。

2015-08-06 (木)

OneNoteを仕事で使ってみたら思いのほか便利で驚いている。タスクリストくらいにしか使っていないが,フリーカーソルでページの好きなところに書けるのがこんなに気楽だとは。細切れのメモを各々1ページにするよりは,断片を寄せ集めて1つのページにまとめるように使うと便利で,その点Evernoteとは逆の方向性である。

Evernoteを改めて見ると,UIが妙にストイックなことと,ノートが多くのメタデータ(タグやら位置情報やら)を持っていることが目につく。右クリックでいろいろつつくといろんな機能が現れる。一方のOneNoteは,ページのメタデータというものがそもそもなくて,なんというかただただ見たまんまですという感じ。すごい割り切りだ。そして,ノートシールがなにやら雑多に各種あったりセクションに色がつけられたりとどこかノホホンとしたUIで良い。

2015-08-07 (金)

今使っているマウスピースは,ポイントにはまればいい音がするのだが,総じて奏者の側でやるべきことが多い感じ。前日吹いていない状態だと唇がこなれていなくてうまく制御できない。ということで仕事から帰ってからスタジオで1時間だけさらう。

2015-08-08 (土)

立秋でちゃんと涼しくなった。セレーナのGP,メゾンの練習。

2015-08-09 (日)

ティアラこうとうにてオーケストラ・セレーナ第6回演奏会の本番。人生初のブラームス2番,音符の少なさもあってかなり気を張っていた。幸い本番としてはまあまあの出来で,特に出だしのコラール風のパッセージがうまくいったのはよかった。こういう曲は本番を1回やってみて,「本番で注意すべきこと」がやっと体得できるような感じだ。

シビアな曲の本番をやりおわると1〜2時間ほど,腹が痛くなる(すごく空腹な時と同じような感覚。胃腸は何ともない)。それで緊張してたということが分かる。ブラームスを打ち上げで消化しきれてない感じだが,そもそも消化するには2,3日かかるような気がする。

普段,降り番の曲では楽屋にいるが,今回のピアノコンチェルトは舞台袖で聴いていた。客席と違って周囲に気を遣うこともなく聴け,楽屋と違って適度に集中力も保てて,なによりピアノがすばらしく,いい時間だった。

2015-08-10 (月)

昨日の余韻で一人,再度打ち上げ。

2015-08-11 (火)

『江戸川乱歩傑作選』(新潮文庫)読了。すばらしい。有名どころだけど「D坂の殺人事件」と「人間椅子」が好きですね。今朝は「芋虫」を通勤電車で読んで青くなっていた。

2015-08-13 (木)

アートワークが勝手に置き換わる現象が多発するのでiTunes Matchの継続を中止した。結局いつの時代も自前のバックアップしか信用できないということなのだろうか……。

2015-08-14 (金)

メゾンの練習。

2015-08-15 (土)

神奈川県立音楽堂にて,アンサンブル・メゾン第35回演奏会の本番。この会場は初めて行ったが,なんか吹奏楽コンクールでもやってそうな建物だった。古いけど細ごまと手入れがされているみたいで,いいなと思った。ロビーの空間もゆったり取られていて好印象。広いことは大事である。

田園はやはり好きな曲だ。ドヴォルジャーク5番はダサい曲という印象だったが,今回やってみて,なかなかどうして愛すべきところがあると思った。この2曲はどちらもF-durで,しかも冒頭がFとCの持続音(パストラーレ・オルゲルプンクトというらしい)という点も同じ。メゾンはいつも面白いプログラムで感心する。

2015-08-17 (月)

コミュニケーションスタイルの類型として,「相手が聞いてくれない前提で話す」「相手が聞いてくれる前提で話す」という2類があるのではないかと最近思っている。前者の場合は話が端的で短くなる。後者は網羅的で長くなる。

2015-08-19 (水)

ブログ黎明期(2004年頃)って,ポータルサイトの巨人が不在の時代だったのかもしれない。それより前は誰も彼もYahoo!見てた。それより後は猫も杓子もTwitterやFacebookを見てる。mixiはポータルって感じではないし,はてなアンテナとかあったけど決定打ではなかった。

2015-08-20 (木)

事故や災害からちょうど何年といった節目のタイミングで「祈り」を捧げる,というのは欧米的な表現という印象があり,少なくとも日本人の行為を表す言葉としては違和感を覚える。日本語の「祈る」は活躍とか冥福とか「今後起こる何かヲ祈る」のが典型的であって(さらに古くは「神ヲ祈る」だったようだが),節目の日に手を合わせるのは多くは「何かを」祈っているわけではないので,文字通り「手を合わせる」,あるいは「拝む」みたいな動詞が私の感覚としてはしっくりくる。

2015-08-21 (金)

帰省。

2015-08-23 (日)

ずんだを作った。

2015-08-24 (月)

帰ってきたら東京も涼しかった。

2015-08-25 (火)

ふと思ったけど,老後にやりたいことなんてなにも思いつかないな。どうしてるんだろ。俳句でも詠んでるのかな。

2015-08-26 (水)

夏休みは8月31日までという前提で書かれている文章を見ると北国の人間はちょっと悲しい気分になるんだよな。

2015-08-28 (金)

ドライモヒートをドラえもんに空耳した。